加藤秀俊　著作データベース

カレーの味

発行年月: 19870101
掲載　　: 婦人公論
発行元　: 中央公論社

　「伽哩倶楽部」というカレーの研究会をつくるので参加しないか、というお誘いをハウス食品からうけたのはたしか一年ほどまえのことであった。どういうわけでわたしが選ばれたのかその根拠はさだかではない。ことによると昔、カレーについてのエッセイをかいたことがあるからかもしれないが、とにかく、わたしはもちまえの好奇心から、すぐに引きうけることにした。それに、他のメンバーは江上栄子、壇太郎、玉村豊男、といったその道の専門家ばかりである。勉強には絶好の機会だ。
　それに加えて、わたしはしばしばカレーライスというものを口にしている。わたしなどの職業はたいへん不規則な生活をその特色としているが、それでも昼食を外でとることが多い。とりわけ放送大学ではテレビのロケが毎月二回ぐらいある。スタッフのみなさんといっしょにあわただしく昼食をとる、ということになるとたいていカレーライス、そば、またはラーメンということになる。値段の関係もあるが、いずれも、とにかくあまり時間がからない。ちなみに、きくところによるとこの三つの食品は会社や学校の食堂のトップ御三家だそうだから、わたしもどうやら平均的日本人のひとりなのであろう。
　しかし、この三つのなかでなぜカレーを選ぶかといえば、なによりもその味の最低線がほぼさだまっているからである。だいたい、外食というのはいささか勇気のいるもので、はじめて入った店でメニューなどを出されても、さてなにがおいしいのかさっぱりわからない。おいしいものにめぐりあったときにはうれしいけれども、逆にどうにも口にあわないものがだされると絶望的になる。その点、カレーというのはどこにいってもあまり出来不出来がない。もちろん、おいしいカレー、あまりいただけないカレーという序列はあるけれども、最低線がはっきりしており、その最低線が確実なのである。少なくともわたしの味覚の許容範囲にはいる。
　それに麺類というのはスナックとしてはよろしいが、わたしなどのように、日本にいるかぎり一日一度はお米のごはんを食べたいという人間には、カレーライスはもっともありがたい。たとえ上にかけられているカレーがなんとなくたよりなくてもごはんと福神漬があれば、それでわたしの消化器は満足してくれる。そのうえ、いかに上等のレストランにはいってもカレーの値段はたいしたことはない。少なくとも、いったい合計いくらになるのかという不安をいただきつつ寿司屋ののれんをくぐるときのような緊張感はない。だからカレーを食べる。
　ところで、わたしをもふくめて、われら日本人が、元来インドにはじまるカレーというものをみごと、国民食とすることに成功したという事実にわたしは興味をもつ。明治のころの記録をみると、もともとカレーというのは日本最初の簡単な家庭用西洋料理としてはいってきたようである。このことは、いまも昔もかわらない。つくりかたは凝っていたらキリがないが、簡便な方法でやろうと思えばだれにでもできる。じっさい、昨年の夏、ひとりで山ごもりしていたときには連続五日間ほどレトルトのカレーでわたしはすごした。しかも、それでもあきないのである。まことにカレーというのはふしぎな食品だと思う。
　さらにいうなら、いまわれわれが一般にカレーとして知っているものは、もはや洋食でもなく、またインド料理でもない。日本のカレーは日本のものなのだ。いささかたとえが大げさすぎるが、ちょうどおなじくインドを発祥の地とする仏教が日本で浄土真宗や日蓮宗のような日本仏教をつくったのとおなじように、日本のカレーは日本カレーとしかいいようがない。さきほどふれた福神漬だの、ラッキョウだのベニショウガだのといったつけあわせの工夫は、まさしく日本カレーの成果というべきなのではないか。われわれはこの「日本カレー」を誇りとしてよろしいのである。
　この研究会は、数ヶ月の勉強会をかさねながら、一般募集の新しいカレー料理コンテストの審査をしたり、またその成果発表の場では、明治以来の文献に基づく、昔のカレーの復元をごちそうになるという機会にもめぐまれた。村井弦斎の名著『食道楽』にのっているカレーなどもおもしろかった。これはカキとエビを材料にしたもので、まさしくこの時代からすでにカレーの日本化がおこなわれていたことがよくわかった。わたしとしてはまことに有意義な研究会に参加させていただいた、という気持が強い。
　さいごに念のため付け加えておくと、そもそもカレーというものはさまざまなスパイスをじぶんの好みで調合するのが本格なのである。いちおうだれにでも手軽につきあえるように、というので平均的なカレー粉だのルーだのが市販されてはいるけれども、じぶんで好みの香辛料を買ってきてまぜあわせればその味は千変万化。ターメリックをいれなければ無色透明にちかいカレーだってつくることができる。わたしはだいたい無精で、じぶんで台所に立ったことなどない人間だけれども、これを機会にいちど、わたしの味のカレーをつくってみようかと思っているところなのである。

加藤秀俊著作データベース
文書管理番号: 3140