加藤秀俊 著作データベース
ものとの交流史２５＜カミソリ＞
発行年月: 19821101
掲載 : TWO WAY 50号
発行元 : 商品科学研究所
もう三〇年もむかしのことになるが、はじめてアメリカに行ったときに電気カミソリというものにおめにかかった。もっとも、わたしはそのころ貧乏留学生の身の上であったから、この新製品を買うことなど及びもつかず、要するにボストンの商店のショー・ウィンドウにならぶ電気カミソリを眺めるのみであったが、いつの日か、こういうカミソリを使える身分になりたい、という気持をおさえることはできなかった。それというのも、わたしは生来の不器用で、ヒゲをそる技術が拙劣であったからだ。
わたしも他の男たちとおなじように、十代のおわりからヒゲが気になりはじめ、父親のカミソリを借りてヒゲそりという作業を日課のなかに組み入れることになったのだが、しばしばカミソリの刃で肌に傷をつけてしまう。もちろん、使用していたのは安全カミソリであって、したがって、傷といってもたいしたことではなかったのだが、それでも、ちょっと当て方がわるいと小さな傷ができて血が出た。そういうときは、メンソレータムなどを塗って処置するのだけれども、一日じゅう、ときには二・三日にわたってその傷あとが赤く残る。あんまり気持のよいものではない。
その点、電気カミソリはきわめて安全である。だいたい刃が露出していないのだから、怪我をするはずがない。わたしは、二度めのアメリカ滞在のとき、やっとあこがれのレミントン社製電気カミソリを手にすることができた。使ってみると、なかなかよろしい。へんな話だが、たとえば本を読みながらでもカミソリを当てることができる。刃物につきまとう、いっさいの不安が消えたわけだから、こんなに便利なものはない、とおもった。
しかしながら、この電気カミソリという新発明品を使ってみて、しばらくすると、なんとなく物足りない気分になってきた。これは女性にはおわかりいただくことのむずかしい感覚であろうけれど、ふつうのカミソリを当てたあとには、さわやかな清浄感がある。きれいさっぱりと、ヒゲの根元までそり落して、多少、こころよい痛みをさえ感じるような、そういう気持がたのしいのである。電気カミソリだと、コンマ何ミリか知らないが、まだ皮膚にヒゲが出ているような気がしてならないのだ。ひとことでいえば、ヒゲそりにおける不完全感覚、とでもいうべきものがそこにはつきまとう。
そればかりではない。電気カミソリの内部には、いわば刈りとったヒゲがこまかい粉末状になってたまるのである。これを一週間にいちどぐらいは掃除しなければならぬ。そして、それを掃除するたびに、これまた、なんともイヤな気持になる。ふつうのカミソリであるなら、毎朝、刈りとられたヒゲは水道の水とともに流れてゆく。一週間ぶんのヒゲの粉をブラシで掃除する、というのはあまり清潔感がない。
そこで、数年間、電気カミソリを使用したあげくに、結局、わたしはむかしながらの安全カミソリに回帰することにした。熱いお湯を蛇口から出し、ヒゲそりクリームをたっぷりとつけてカミソリを当てることによってわたしは清新な一日のはじまり、というものを皮膚で感じることができるようなのである。もとより、さきにのべたような危険もないわけではない。いまでも、たまに小さな怪我をする。しかし、おなじ安全カミソリといっても、このごろのカミソリは片刃になり、しかも、二枚刃といった新案の商品も出てきた。むかしの両刃のカミソリよりはずっと安心して使える。
そういう、ほんもののカミソリがもたらしてくれる清浄感というものは、ひょっとすると日本人に特有の心性なのであろうか、という気もしないではない。実用的にいえば、電気カミソリでじゅうぶんなはずなのだから、アメリカ人などは電気カミソリを愛用しているのではあるまいか、とわたしはときどきかんがえる。しかし、アメリカの友人たちとこの問題について話してみて、どうやら、男というものは、世界じゅう普遍的に、在来型のカミソリを好むようになってきているらしい、ということがわかった。
といって、電気カミソリがわたしの身のまわりから消えたわけではない。たとえば、五時までしごとをして、そのあと夜の会合がある、といったばあい、わたしは研究室で電気カミソリを使う。長距離の国際線の飛行機に乗ったときなど、着陸の前に、これまた飛行機備付の電気カミソリを使う。そういうときには便利だ、とおもう。しかし、カミソリの本命は、やっぱり、ぐっと皮膚に手ごたえのある本来のカミソリにある。たとえ、ときどきアゴや耳の下に血がにじむことがあっても。
加藤秀俊著作データベース
文書管理番号: 3023