加藤秀俊 著作データベース
不本意な資産家
発行年月: 19890901
掲載 : ＮＥＸＴ
発行元 : 講談社
不本意な資産家 加藤 秀俊
このところ、どうにもふしぎでならないのは、わたしがいつのまにやら「資産家」になってしまったらしい、という事実である。べつだん、悪事をはたらいたわけでもなく、また株で儲けたというわけでもない。だいいち、株などというものをもったこともない。学者商売をやっていれば、原稿料だの講演料だのをいただくこともあるけれども、ベスト・セラ−を書いたこともないから、収入などタカがしれている。
それなのに、わたしは「資産家」になった。その理由は簡単であって、要するにわたしの住んでいる東京都心の地価が高騰したからである。わたしがこのあたりに住みはじめてから、もうこれでほぼ二〇年。そのころもけっして不動産は安くはなかったけれども、とにかく買うことのできる価格であった。それが、毎年、値上りする。その結果、わたしは心ならずも「資産家」になってしまったのだ。ひとさまは、それをうらやましいとおっしゃる。時価評価は何億円ということになるらしいから、たしかにわたしは金持ちなのであろう。
だが、本人の身になってみれば、冗談ではない。べつにこの土地・家屋を売ろうなどという気持ちはこれっぱかしもないのだし、なによりもこれはわが家である。それなのに、固定資産税はどんどん上がる。それに、わたしだって人間なのだから、いつかは死ぬときがくる。そのあと、この「資産家」たるわたしの妻や子はとうてい相続税を支払う能力などありはしない。たぶん、この家を人手にわたし、譲渡税までたっぷりとられたうえで、どこかに引っ越すことになるにちがいない。じぶんの家なのに、こんなバカなはなしがあってよいものか。
だいいち、わたしはじぶんで「資産家」になろうなどとおもったことは、たったのいちどもない。そのための努力をしたこともない。わたしの知らないところで、「地価」という名の怪物がわたしを金持ちにしてしまったのである。迷惑もはなはだしい。さらにいうなら、この「地価」というやつも、じつは民間の不動産会社などが投機的につりあげたものだ。それは、あきらかに社会的犯罪である。ところが、その社会悪を政府は処罰するどころか追認して「路線価格」なるものを当事者への相談もなく一方的にきめる。きめたうえで税金をとる。その結果、国の税収はゆたかになったが、わたしにいわせればこれは「地価」というえたいの知れないものを根拠にした権力的詐欺である。わたしはその詐欺の犠牲者であるばかりでなく、「資産家」という汚名をあたえられてしまった。いうなれば、わたしは「不本意な資産家」なのである。なりたくてなったわけでもなく、迷惑しているのである。
さいきん、閣僚諸氏が資産公開というのをはじめて、国民は大臣や次官がどれだけの資産をもっているかを知った。新聞は、これら政府要人が何億というマンションに住んでいることをけたたましく騒ぎたてるけれども、それは残酷というものであろう。大臣が東京の都心に住むのはあたりまえのことだし、そこでの不動産価格がどれほど異常な高額なものであるかは常識であるからだ。赤坂のマンションに居住する閣僚の資産はその近所の八百屋さん、豆腐屋さんのそれよりすくないはずである。
これら政府高官もまた、じつのところ、わたしとおなじように「不本意な資産家」である可能性が高いのである。もしも高官諸氏がその巨額の資産のゆえに国民から指弾されるのを不愉快におもわれるなら、さっそく都心部の土地国有化といった政策を立案、実施していただきたい。そうすることによって、わが隣人たる八百屋さんなどとともに、わたしのように「資産家」に仕立てあげられて迷惑している人間たちも救済されるのである。もう「資産家」なんかまっぴらだ。
加藤秀俊著作データベース
文書管理番号: 2345